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「「おんぶ」で、思い出しちゃいました。阪神淡路大震災のテレビ
映像を見ながら、母が激怒してたなぁ〜と。「今どきのママは、
我が身ばかりを気にして母親してない」って。 危険だから、
避難してるんでしょ。子供が大事なら「いつけ紐」で子供と
我が身をひとつにしないでどうするの? ↑「おんぶ紐」のこと。
母くらいの年代の人は、みんなコウ呼ぶ。「だっこ」だと、
はっ!ってびっくりしたとき、子供を落とさない?「おんぶ」だと
両手が自由になるのに。あなた(私のこと)だったら何考えてるのって
殴ってるとこだわ。ダイトウワ戦争を体験した我が母の意見でした。
そういえば、テレビ映像のママは「だっこ」でした。どの人も、この人も。」
なるほど。確かに「倒れる」時もたいがい前ですよね。
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第三十一話
年が明け、会社がはじまった。
でも、毎朝手はドラえもん状態。
起きてしばらくすると、元に戻るのだが、パキパキいう。
会社で同僚に
「手がドラえもんなの。」
と言ったら、大うけされてしまった。
また、同僚の一人は
「どうしたら、そんな風になるの?」
と不思議がっていた。
う〜ん。どうしてなるんでしょう。
こっちが聞きたいくらいだ。
こればっかりは「バルーン」を読んでも載っていない。
先生に聞かなきゃ・・・と少し憂鬱になる。
家に帰っても楽しくない。
疎外感はもちろん「おはよう」といっても返事もしない。
「只今帰りました」といっても、「おかえり」がない。
生活の基本の挨拶がない。へんな家族。
旦那も結婚当初、全然言わなかった。
「挨拶、基本でしょっ!」
と、騒いだ事があったけど、こんな家族で育ったら
仕方がないのかも。これから子供が産まれるというのに、
どんな風に育つのやら。
お義母さんは、二人っきりになるとぐちぐち言い出す。
旦那が後日、それはいじめだ。
みんながいるところでいうならともかく、
誰もいなくなってから言うのはなぁ・・・
と言っていたが、当時の旦那はお義母さんのいいなりだった。
私に愚痴らないときは(文句を言わないときは)
お義父さんにブツブツ文句をいっている。
はっきりいって、聞くのも嫌だ。
会社が唯一の「逃げ場」だった。
とにかく、精神的にまいっていた。
あの頃のお義母さんは「引っ越鬱病」だったんだなぁ・・・
と、今の私なら思えるのだが、当時の私にはそんな余裕はなかった。
ただ毎日、一週間過ごせた。
じゃぁ1ヶ月も持つだろう。
1ヶ月もてたら、3ヶ月は平気だろうと、自分に言い聞かせていた。
朝、お腹が妙に張ることもしばしば。
電車・バスが怖くて、遅刻も増えた。
そんな時は布団に入って寝ているのだが
「そんなんでゆっくりいけるのなら、引っ越しのあと休めただろうに。」
と、お義母さんは文句をいう。
・・・そんなん?
あんたはお腹の子供がどうなってもいいんだろう!
この自己中の馬鹿女っ!
と、思いながら、布団に横になっていた。
こんな状況は「胎教」に良くないよなぁ・・・
と想うのはもう少し後のこと。
このときは本当に生きているのが精一杯だった。
毎日、布団にはいると涙が出てきてしまっていた。
悔しい事を言われた時などは、声を上げて泣いてしまっていた。
聞こえると悔しいので、聞こえないように
布団に潜るのだが、涙も声も止められない。
毎日・・・本当に毎日・・・自分のおかれた不幸な状況を呪っていた。
旦那は、何一つ助けてはくれなかった。
旦那に対する信頼は、私に余裕がなくなるのと同じに、
少しずつ、少しずつ、でも確かに、なくなっていった。
続く
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感想メールまたまた載せちゃいます。
「出産体験記、楽しんで読ませてもらってます。私は23歳で
事務の仕事してます。2歳の息子がいます。なんだか、所々
ダブって思い出しますね。妊婦時代を。一人で、そーなんだよね。
って、うなずきながら読みました。私もつわりなんて全然でした。
ただ眠いだけ。私の回りにはそういう人けっこういました。
続き楽しみにしてますね。
仕事に育児に原稿作りに・・・がんばって下さいね。」
はい、頑張ります。お互いに頑張りましょう。ではもう一通。
「 師匠。泣けてきますぜ。(朝から・・・うぅ)
「おんぶ」もそうですが「子育てとは、何ぞや?」と聞かれたら
「親より出来た人間に育てること」と思います。大変ですよ、これ。
ネバーエンディングストーリー・・孫までつづくで。
子供は分かっていても言えないし、言わない。だから良く言うのは、
「お母さんの嫌いなところ、悪いところを大人になっても絶対に
忘れないで。自分が親になったら活かしなさい。」って
(良かれと思っても違うときあるしね、どうやって育てよう、
なにすれば、と考えた結果、100年経っても、200年経っても
大事にすべきもの、すべてに繋がるものということで「思いやりと躾」
となりました。先の事を考えながら即座に判断なんてときは、
パニーーック!でしたが。)大人は「子供心」を忘れてはいけないと
思います。純真無垢、率直、正直。
こんな素晴らしいものたくさん持ってますから。」
ほんとですね。でも私は親より立派じゃなくてもいいや。
元気で人に迷惑かけないなら。
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第三十二話
1月16日月曜日晴れ。
成人の日の振替休日。
定期検診に行く。引っ越してきて、初めての検診であります。
前の家からだと、街道を一本でいけたのに、
今の家からだとそこまで出るのに、市内を通らなければいけないので
時間がかかった。
毎朝、手がぐーの状態はまだ続いていた。
先生に言うと、塩分制限して下さい、と言われた。
26週と5日。
7ヶ月。体重は全快の検診より、0.5kg増加。
まぁ、いいでしょう、という感じでした。
次回の検診は2週間後、とのこと。一ヶ月後、ではなくなった。
「出産」が刻々と近づいていることに気づく。
どきどきであります。
「出産」といえば、実は密かにおそれていることがありました。
それは「会陰切開」
はじめてこの言葉を聞いたのは、22才の時。
総務にいた私に、出産手当金の手続きをしにきた人が、
立ち会い出産をした、という話からでした。
「どうでした、立ち会い、感動的でした?」
「うん。まぁね。でも痛そうだったぜ。」
「そりゃ、産むのは痛いでしょう。」
「違うよ。」
彼は、こそっと身をかがめて言った。
「切るんだよ、あそこ。ハサミでさ。」
「えっ?!何それ?」
「だから、赤ちゃんが出てくるとき、出やすくするためにパチンって。」
「ま、麻酔は・・・?」
「するわけないじゃん。だから痛そうだったって。」
もう、その後の事はよく覚えていない。
ただ、切ることに対しての恐怖だけが頭をよぎった。
切る?
あそこを?
ハサミで?
麻酔はもちろんなしで・・・・?
うそ・・・・・。
うわ〜・・・・嫌だ〜・・・・。
そんなの聞いたことないぞ〜っ!!!!
う・産みたくない−−−−−−−−−−っ!
という感じでした。
「会陰切開」も、廻りがパタパタと子供を産んでいき、いろいろ聞いて、
知識が付いて、更にみんなが我慢できて、私に我慢出来ないことは
ないだろう!と思い、妊娠に至るのですが、密かにまだ怖い。
あ、時間だ。
ということで、次回は「会陰切開」のお話をしましょう。
ではまた。
続く
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今年もよろしくお願いいたします。
しかし・・・
昨年末は大変でした。(*平成12年お正月の話です*)
とうとう私まで風邪をひき、お腹をこわして点滴治療をうける
ハメになってしまいました。同時期に息子もお腹をこわし、
培養の結果、病原大腸菌O114が検出されました。
食中毒か、どこかから感染したか(保育園?)全く困ったもんです。
やっと出社して、三十三話を打ったのに、またまた登録ミスして
消しちゃうし。はぁ・・散々な年末でした。みなさんも風邪には気をつけて。
では会陰切開の続きです。
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第三十三話
昔はそんなのやらなかったらしいです。
今でも、産婆さんとか、助産院ではやらないそうです。
で、なんでするかというと、「裂けて」しまう前に「切る」んだそうで。
紙なんかビリビリに破いた後テープで止めるのと、ハサミで切った後
止めるのとでは、ハサミの方がきれいだし、楽でしょ?
裂けちゃうと縫うのも大変、後もつったりして大変らしいです。
で、切ってしまえば縫うのも楽チン、後々も楽チン。
で、「会陰切開」をするんだそうです。
それにしても・・・ハサミで切るってこわいよね。
そんでもって、一人目二人目三人目、とハサミの入れる位置も違うんだって。
ひゃ−−−−−−っ!
こっわ−−−−−−−−っ!!
とにかく、会陰切開の恐怖はつきまとっていました。
出産をした友人に聞くと
「気が付かなかった。」
「わかんなかった。」
という人ばっかりで、なんだそんなもんなのかなぁ・・・
なんて思ったんだけど、私は当日しっかり気づいていました。
その話はまた後日。
続く
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感想メール載せますね。というより、本人の体験記かな。
ちょっと怖い・・・(笑)
「今日の体験記・・・・誰にも言えない秘密をばらします。
あの切開のあと縫いますよね、知り合いの看護婦さんが、一言
「先生、違うとこ、ぬってんでねー?」(方言)
私まだ台の上・・・
「んー、だいじょぶかぁ? んーん、だいじょぶだなー」
って、こんなのあり?」
怖いよね。どこ縫ってたんだろう・・・。
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第三十四話
1月17日 火曜日晴れ。
毎朝、一番最初に起きるのは私。
5時30分に起床。
ストーブをつけて、お湯を沸かし、朝食の準備とお弁当の用意。
ストーブがついた頃、お義父さんが起床。
パンを焼き、ジャムをつけて、沸いたお湯でコーヒーをいれて、朝食。
この日も、いつもの通りの朝でした。
AM5:48頃
「地震だ・・・・。」
ふいにお義父さんがぼそっと言った。
「え・・・地震?」
「ほら、揺れてる。」
確かに揺れてる。
「ほんとだ。でもゆるやかな地震ですね。」
お義父さん、TVをつける。
東海地方での地震、とTVのアナウンサーは告げた。
「へぇ・・・結構遠いのに。」
「でかかったのかもしれないぞ。」
「はぁ・・・そうですね。被害とかなければいいですけどね。」
ありゃりゃ・・・と思い会社へ。
このときはまだ、この地震で、多数の被害が出ているとは夢にも思っていない。
会社に着くと、専務がぼやいている。当時、私の席の斜め後ろが専務の席でした。
「電話がつながらないんだよ。おかしいんだよ。」
ラジオを持ってきて、被害状況を聞くが、わからないらしい。
「つながらない、被害がわからない、って事は、通信出来てないってことだ。」
通信できない・・・? それってどういう・・・・
「なんでも神戸は、壊滅状態だそうだ。」
社長からの連絡で、専務がぽつりといった。
壊滅・・・? なにそれ・・・?
「大阪方面もひどいらしい。が、とにかく神戸はひどいらしい。」
大阪には知り合いが結構いる。
以前勤めていた会社に大阪支店があった為と、旦那の叔父さんが
大阪で一人暮らしをしていたはずだ。
いてもたってもいられず、昼休みに家に電話をする。
叔父さんの方は、一回だけ電話がつながり、無事を確認したらしい。
ひとまず安心。でもこの寒さだ。
アパートが倒壊寸前とかでは住めないだろうし、壊滅状態じゃ
電気もないんだろう。大丈夫なんだろうか・・・。
日に日に被害がはっきりしていく。
高速道路が斜めになっている映像が流れる。
家につぶされて生き埋めのまま、火にまかれている人もいるという。
被害は3000人をこえたらしい。
あれっきり、連絡がとれない叔父さんが心配、
とお義母さんは、叔父さんをこっちに連れてくるといいだし、
1月21日土曜日、大阪へ義妹と連れだって行った。
無事、近くの避難所で再会。
「本当にひどい。戦後みたいだったよ。」
とお義母さんはいう。
そして、うちは大人7人という大所帯になった。
続く
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感想メールです。
「今のお母さんはおんぶしないんだー。たしかにあんまり見ないなあ。
だっことおんぶがどっちが楽かは私も何となく覚えがあるよ。まだ
身長が低かったから、おんぶひもがあまっちゃったりして大変だった
けど、だっこよりは楽だし両手があくし。・・・というか、最近の
お母さんってみんな若いしきれいだよね。学校の帰りの電車とかで
よく見るんだけど、「これが2児の母かいっ??」とビックリする
ような人が、けっこういたりする。あと、話は変わるけど、名前。
名前もけっこう個性的な名前が多いよね。隣のクラスの担任の
お嬢さんは「詩英奈」って書いて「しえなちゃん」というのだそうだ。
ちゃんと英の字が入ってるところが英語教師っぽいけど、なんで
イタリアの地名をとったのかは不明。」
最近確かに、名前をすんなり読めない子多いよね。
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第三十五話
1月後半。
唯一のストレス発散の場所である稽古場。
そこに通う事も「禁止」される。反対とかではなく、禁止というところが
頭にくる。自分でも、そろそろ引継をはじめていたところで、
人に言われなくても、充分わかっていた事だったから。
平日の稽古終了で、まっすぐ帰ってきても帰宅時間はPM10時30分位
だったし、お腹の赤ちゃんも、この寒さはこたえるようで、
よく張っていたから。でも稽古に出ていると、嫌なことも忘れられて、
お腹にはかえって良かったんじゃないかなぁ・・・と今でも思う。
ま、とにかくいけなくなってしまった。
つまらない。とにかくつまらない毎日。
日曜日の稽古なら行ってもいいだろう、と旦那が連れていってくれたが、
お義母さんはおもしろくなかったらしく、また口をきかない。
そして旦那がいなくなり、二人になるとブツブツ言い始める。
なんとかしてよ、もう。はぁ・・・・。
2月3日金曜日・晴れ。
お義母さんは眼科に行く、といっていたのに具合が悪い、と寝ている。
まったく、おもしろくないと、すぐふて寝するので、本当に具合が悪いのか、
そうでないのかがわからない。
私は午後、お義父さんの運転で産婦人科へ。
会社はもちろんお休みして。
今日は「入院説明」であります。
はじめて病院の2Fへ。
階段をあがると、そこはすぐ「新生児室」。
赤ちゃんがたくさん寝ています。
ピンクのタオルと青のタオルで、男女の区別をつけていました。
赤い顔の小さい赤ちゃん達。
あと2ヶ月と少しでこの手に抱ける。
あとたった2ヶ月なのか・・・と思う。
入院の際持ってくる物や、入院費の説明を受けて、その後診察。
29週と2日。
体重は前回の検診より−0.5kg。
精神的なもののような気がする。
まぁ、増えていなくてラッキー!なんて思ってる私。
先生がいう。
「もうこっちの話が聞こえてるらね。話しかけて上げなさい。」
私・・・はっとする。
それまで、旦那と二人でよく「ちびちゃん」と話しかけていたのに、
この1ヶ月全然していない。
それどころか、お腹の子供と一緒に家を出たいとか、
生きていたくないなんて事まで考えていた。
やばい。
今更ながら「やばい」と思った。
こんなんじゃ昔の二の舞だ。
マジで考えなきゃ。
生きていたくない・・・と思ったとき、これやばい、
8年前の再来っ!と先週位から「お守り」とばかりに、
念珠を身につけていた。
自分の身を守ることばっかりで、ちびちゃんに話しかける事を
忘れていたとは・・・。
今は、二人分強くならなきゃいけないんだ。
私がこんなんじゃ、胎教にも絶対良くない。
旦那にも話しかけ忘れてる!って言わなきゃ・・・
と心に誓う私だったのでした。
続く
第三十六話
生きていたくない・・・・
「死にたい」までは、いかないのだけれど、生きるのが辛い・・・。
でも、いっそ・・・。
こんな「感情」にとらわれる事が多くなってきた。
やばいなぁ・・・。
「念珠」は今でこそメジャーになったけど、
当時はまだあまり知られていないものだった。
でも、めざとく専務は見つけて、私に言った。
「なんだ、上田さん、そんなのつけて。」
「いえ、あ・・そのちょっと胎教の為に。」
「胎教?上田さんが?わっはっはっはっは・・柄じゃないだろう!」
「そうですか?」
「そうだよ。胎教には元気が一番。上田さんは充分だよ。」
専務は笑い飛ばし、肩をバンバンと叩いて行ってしまった。
肩をさすりながら、元気ないんです・・・と心の中で答えていました。
乗り換え駅で同僚と別れた後、ベンチに座り込んでしまう日が、
増えていきました。
ただでさえ少ない、そこから先の電車。
1本見送り、2本見送り・・・
元気出せっ!帰らなきゃ・・・っ!
と決心して、電車にのる毎日でした。
元気出さなきゃ・・・
そんなとき、頭に浮かぶのは8年前の出来事。
劇団の人間関係・個人的な人間関係・会社等・・・。
なんだかいろいろあって、ストレスがたまりまくってしまい、
もうどうにでもなれっ!て感じで精神的に、
めちゃくちゃな時期がありました。
ある日、劇団の稽古終了時に、友人が私にいいました。
「佐藤・・・こわいよ。」*佐藤は私の旧姓です
「そう?」
「うん。かなり。大丈夫?」
私は、こわい顔でもしてたかなぁ・・・とその時は思ったのです。
「こわい」の意味は、すぐその日にわかりました。
稽古場は、台東区入谷にありまして、帰りには日比谷線を使っていました。
手元にあったゴミを捨てようとゴミ箱へ。
当時の地下鉄のゴミ箱って、上に鏡がついていて、なにげなく鏡をみたんです。
っ!!
ぎょっとしました。
自分の頭のまわりに、黒いもやみたいなものが、
ドワ〜っとまとわりついていたんです。
もちろん、次に見たときは消えていました。ゾゾゾゾゾ・・・・・
背筋が寒くなったのを覚えています。
こいつらのせいかっ!
なんだか無性に生きるのが辛くなってたのは。
それもいきなり!
こんなのが、まとわりついていたら、そうなるに決まってる。
ひ−。怖い−。
家に帰って、すぐ友人に電話。
「あたしは見えないけどさぁ・・・こわかったんだもん。」
感謝感激あめあられです。
とにかく追っ払わなきゃっ!と気合いを入れた、という出来事がありました。
まさに、今が全く同じ。
なんだか生きてるのが辛い。
お義母さんのせい以上に、何かのせいだ。
自分でわかってる。何かを呼んじゃってるって。
なんとか振り切らなきゃどうにもならない!
わかっているんだけど・・・・。
だけど、家に帰れば辛いだけで・・・。
私の元気はますますなくなり・・・。
「死にたい・・・」まで気持ちが傾いて行くのを、
まずいなぁ・・・と思いながら、止められないでいたのでした。
続く
第三十七話
なんだか暗い話が続いて、私も思いだして滅入ってしまいました。
少し話をそらしましょう。
質問の回答コーナー!
Q1 大人7人って?
という質問をうけました。
説明不足ですみません。その当時の家族構成は、下記の通りです。
義父
義母
旦那
義妹
義妹
私
大阪の叔父さん 以上7名
Q2 8年前って?
はい。三十六話に載せた通りです。
何かが私を取り巻いていました。こわかったです。
気持ちを切り替えてから「死にたい」はきれいさっぱり消えました。
おとくいの「ま、いっか」がでないときは、危ないのかも。
Q3 上田さんってそういう人なの?
「そういう人」っていうのも変な言い方ですが・・・
どっちかっていえば「だった」ですね。
最近は変な声とか、へんなものとかも見ないし・・・。
今は割と普通の人です。
と、こんな感じでよろしいでしょうか?
ここで質問していい?
どうして子供(赤ちゃんとか)を、嬰児(みどりご)っていうの?
知っている人教えて下さい。
赤ちゃんの赤は、赤いからでしょ。これはわかるんだ。
でもなんで、みどりご・・・みどり・・・・。
ちょっと気になることがあって・・・
わかるかた、いらっしゃいましたら、お願いします。
ではまた明日。
続く
第三十八話
3月8日より、産前休暇にはいる事が決定。
その前に、昨年からちまちまと作成していた
「誰でもできる外壁積算」(積算マニュアル)の完成を迫られる。
2月に入ってもまだ、全然出来ていなかった。
図解しなければ、解読は無理だろう、と最初から思っていたので、
図解は何とか書き上げていたのだが・・・・。
文章。なんて難しい。教科書つくる人、尊敬しちゃう。
何も知らない人にもわかるように・・・・
なんて、用語の説明からはじめなければいけない。
毎日悪戦苦闘。
赤ペンチェックを、別支店勤務の男性社員にしてもらい、
何度も構成を考え、目処が立つか立たないかの状態でした。
彼は2級建築士の資格を会社に入ってから勉強してとった
私達の積算の先生でした。
彼は・・・今はもういません。
平成10年に、若くして闘病生活の末、お亡くなりになりました。
小さいお子さんを残して・・・さぞ心残りであった事でしょう。
ご冥福をお祈りいたします。
2月に入り、我が家はてんてこ舞い。
2月4日にお義父さんのお母さん(旦那のおばあちゃん)が亡くなり、
急きょお義父さん北海道へ。
旦那の下の妹が家を出て、一人暮らしをする事に。
お義母さんは、それを私たちのせいだ、とブツブツいいます。
そうかもしれないけど、私は最初から、同居するなら妹二人が
結婚してからでいいと思いますって言っていたでしょ!
同居を早めたのは、あんたの息子と旦那でしょ!
と...心の中で叫んでいました。
そのお義母さんの旦那。
お義父さんは、3月で会社辞める・・・と言い出しました。
58でした。
定年退職扱いになるとかで、お義母さんもあまり反対もせず、
決定となりました。
大阪の叔父さんは、年金等の手続きもあるし、
ある程度落ち着いたようだから・・・
と、大阪に帰っていきました。
同居メンバーは、2月に入ると大人5人に減っていました。
お義母さんは、雨が降るとグチグチ・・・・
晴れればご機嫌・・・・。
これって、完全に鬱病の症状なのですが、
やっぱり当時の私にはわからず、胃をキリキリさせていたのでした。
続く
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
またまた休んでしまいました。今度も1才7ヶ月の息子。
インフルエンザなのか、よくわからないんだけど、38℃から
さがらない。もともと平熱の高い子なので、そんな熱なんて
なんのその。食欲旺盛、元気一杯。
病院でも身体丸めてる人を後目に、大騒ぎ。全く。先生も
「インフルエンザは高熱でぐったりするから・・・
これは喉も赤いし、扁桃腺からくる熱で、普通の風邪でしょう。」
とのことだったが・・・保育園の「ひよこ組」8人は全滅だそうだ。
この強さはインフルエンザだと思う。
40℃の熱が下がらない・・・という子もいるというのだから。
みなさんも風邪には気をつけて。
あと花粉症の方も。今年は3倍だって?
それも2月7日位から飛ぶらしいですよ。
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第三十九話
2月に入ると、寒さのせいか、よくお腹が張るようになる。
そのせいで、唯一の逃げ場である会社にも、行きたくなくなる。
困ったもんである。
土日に買い物に行くんだけど、ペーパードライバーの私は、
誰かに乗せてもらわないと行けない。
全くここって不便。
お正月に、ちゃんと生まれた事の確認が出来た友達にも、
お祝いを買いに行きたいのに、行けない。
郵便局も遠い。ほんとに車がないと、どうにもこうにも動けない。
そして休みは小言小言小言・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いい加減、神経がまいる。
旦那もこういわれた、ああいわれたと聞くのも嫌だ、
といい、口を聞かなくなった。
家・・・って唯一、自分を落ち着かせられる場所。
帰ってこられる場所・・・・。
そう思っていたから、ここはもう家じゃない、と思っていた。
心は、かき乱されるし、神経張りつめてるし・・・。
お腹の赤ちゃんと一緒に死にたい・・・と思い始めていた。
そして、もっと凄いことは、私がこの子と死んだら、
少しはお義母さん、言った事とか後悔してくれるかなぁ・・という、
当てつけ自殺的なことも考えていたことだった。
私の中で「限界」が近づいて来ていた。
続く
第四十話
出産体験記を印刷して持ち帰ったところ、旦那が盗み見て一言。
「あれがない。」
あれって?旦那が盗み見たところは「沐浴指導」のところ。
−振った−ってところで、ブツブツ言ってるのかと思いきや、
全然別のことだった。
旦那は実習で、赤ちゃんを片手で持ち、もう一方の手でガーゼを持ち、
順々にふいていったのだが、頭を洗うときに言った言葉があったのだ。
「かゆいところはありませんか?」
小さい声で言っていたけど、聞こえた人は肩をふるわせて笑っていたっけ。
「駄目だな、こういう、くだらないことを書かないなんて。」
う・うちの旦那って一体・・・・。
そうそう。
嬰児−みどりご−。
ありがとうございました。いろいろ頂きました。
「新芽のように若々しい」「若い芽」等々。
多数の方々からお返事を頂き、大変うれしかったです。
で、なんで私が「色」にこだわったかというと・・・・。
これ書くとまた「上田さんって・・・・」と言われそうで、
迷ったんですが、ま、いっか。
話は13年ほどさかのぼります。
私がまだ19才の頃です。
芝居の稽古後、食事に行き、その後上野まで歩こうと、
仲間達と騒ぎながら歩いていくと、前方にカップル発見。
そのカップルは、なにやらもめていたので、そそくさと
通り抜けたのですが、私の目には、ある不思議な物体が
見えていました。
その物体は、女性の身体の廻りをクルクル円を書くように
飛んでいました。
そしてそれは、きれいな碧色でした。
黄色がまざったような、なんともいえないきれいな碧色。
あれは一体なんだろう・・・・?
後日、そのカップルが、その前日、一つの命を葬った事を知りました。
その後も、産婦人科あたりに行くと、時折みかけるその物体。
あの夜みたような、きれいなものは、なかなかみられないけど・・・。
あぁ・・・これって・・・・。
と、いう思いをもつようになったのです。
それで「みどりご」っていうのかなぁ・・・
なんて10代の私は思ったりしたのですが・・・・はははは。
ちょっと違ったみたいですね。
ま、とにかく、中絶なんかしない方がいいです。
百害あって一利なしです。
ちなみに、今の私は、そんな物体見えませんのであしからず。
なんだか時間なので、変な話で終わってしまいますが
今日はこれで。
続く